生命(いのち)の証

1975年、『アザミ嬢のララバイ』にてメジャーデビューした一人のシンガー・ソングライターがいる。
それは、2009年に紫紋褒章を授与された中島みゆきの事なのだが、言葉を表現する手段として音楽を選んだに過ぎないと、しばしばインタビューにて語っているのが見受けられる。私が彼女のファンになってその動向を追い掛けるようになった高校時代から、それは揺らぐことのない彼女のスタンスであった。その時々の流行というものを追うことも無かった。『地上の星』が、『永久欠番』が、そして『時代』が、今になっても古びることなく通用しているのは単(ひとえ)にそのスタンスに基づいて作品を作り続けているが故だ。少なくとも20年近くにわたって彼女の歌を追い続けてきた私には、それを実感として感じ取ることができる。
私がICU生時代のレポート、ならびに学士論文において、日本文学の観点からデジタルゲーム…具体的に言えばノベル系ADVゲームにおけるシナリオの解釈を試みることを選択したのは、ノベル系ゲームにおけるシナリオを言葉による表現の一形態として認識しているから───ただそれだけの話である。丁度中島が、言葉の表現方法として音楽という手段を選択したのと同じような理由で。
勿論私とて、コンピューターゲームに限らずゲームというものはシナリオだけで成り立つ筈もない事くらいは重々承知しているのだが。私自身がこの新たなる表現手法を用いるジャンルにおいてこの先どれほど深く関わることになるかは未知数だけれども、大なり小なり何らかの形で関与していくことになるのはほぼ間違いあるまい。但しこれは卒論の本文中にも記載した事ではあるが、ごく一握りの例外として一つのゲームが作品として世に出るためには複数のスタッフが力を合わせる必要があるという事実を忘れてはならないと、今一度釘を刺しておく。
比較的最近になって学術的観点から扱われる様になった美少女ゲーム他各種ノベル系ゲームという研究分野においても、最先端の、そして流行のジャンル或いは題材というものは確かに存在する。しかしそういった類の「権威的な」作品群に関しては、他の方々にお任せするつもりだ。
何故ならば私は、歴史の波に屈する事のない、流行り廃りに流されぬ「何か」を追い求めていきたいから。今までも、そして、これからも……
私が把握している限りにおいて、ではあるが───
10年の歳月を経ているソフトハウスは、幾つか存在している。
20年の歳月を経ているソフトハウスも、極小ながら存在している。
30年の歳月を経ているソフトハウスとなったら、果たしてどうだろう?
50年、100年、200年…とか言っていたら、『紫の桜』を思い出すのは私だけだろうか?
ちなみに今回私が引っ張り出してきた『生命(いのち)の証』という言葉であるが、実は2009年に発売された中島のシングル『愛だけを残せ』の、歌詞に含まれている言葉なのだ。これを書いている今も私は、彼女の力強い声にて発せられる言葉の重さに現在進行形にて打ちのめされている最中だが、それは即ち今の私に課されている命題でもある。