相河さんの大学生活・ICU編

今度は再受験して入学することになったICU(International Christian University/国際基督教大学)にまつわる諸々を。
医学生として国公立大学に在籍していた私は、まず学長でも教授でも助教授でも准教授でも皆「●●先生」と呼ぶ事に驚かされた。一般的な大学…それも医学部では考えられない事だったからだ。
ICUとて名前の通りキリスト教系の大学であるからして、キリスト教概論というクラスが全学必修であるのだが、私が受講したクラスはICUの名物教授の一人によるもので、遅刻や締め切り破りには大層厳しいものの内容は興味深く、ファイナル(期末試験のこと)では無事一発でクリアする事ができた。また、このクラスでは各々のクラスでアンケートを取って翌週に回答をするのだが、最初のクラスの回答の際私の書いたものが読み上げられて「今おいくつ?」と先生が尋ねられた際に正直に答えたら、クラスの爆笑を取った事は今でも覚えている。
その先生のクラスに限らず、ICUの先生方のクラスにはハードなものも多い。この頃には完璧に双極性障害を発症していて、うつ状態で沈没し自転車で5分の位置にあった大学に行けなくなったり、逆に躁状態で文章にまとまりが無くなったりしていた。はっきり言って大学入学一年目にELPを受講すると、高校まで英語が得意科目だった程度では凹む事も多い。ましてつい先刻のブログで書いた通り、私は最終的に語学科と人文科学科(日本語学と日本文学)の間で学科間専攻をしたものだから、専門科目の関係上どうしても英語開講のクラスは極端に少なくなってしまう。そこで他の分野から英語開講のクラスを選択して受講した訳だが、情報科学とか数学とかいった自然科学分野が多くなったのは、私がかつて医学部という自然科学領域に身を置いていたからに他ならない。
で、英語開講のクラスに限らず「●●先生のクラスはハードだから止めておいた方が良い」「●●先生は面倒見が良くていらっしゃるから大丈夫」等といった具合に各学期毎の履修計画を立てる際にご助言を下さったのはカウンセリングセンターのカウンセラーの先生方であった。更に卒論アドヴァイザー(卒論指導教官)でいらした某先生を筆頭とした各分野の先生方は私の相談にも親身に応じて下さって、大変ありがたく思ったものだった。もっともごく一部の先生方は逆に私に愚痴やら何やら語ってきたりもしていたが…。更に卒論は日本文学と情報科学の学際領域(要はコンピューターゲームのシナリオについて)なのだったが、関係しそうな各企業のブース巡りをはじめとした下準備を2004年秋〜冬から開始して、様々な紆余曲折を経て2009年1月に完成稿を提出した。じっくりと練り込んで書き上げた分、提出当時としては満足のゆくものに仕上がったという自負がある。最近になってやっと就職が決まったばかりの今の私にとって、各学会などにおいてはこの卒論が名刺代わりとなっていたりもしている。もっとも学会誌に出そうとしたら、TV版、リメイク版に関する事も含めてリファインしなければなるまいが(だって、卒論のネタにしたの『Phantom-Phantom Of Inferno-』だもんね)。

とある元ダメ医学生(兼ICUOG)の思い出話

自分で言うのも何だが、医学生時代はかなりダメな医学生だったと思う。何しろ消毒用エタノールの臭いによって条件反射が働くほど注射・点滴の類が苦手な上に(小学生くらいまでは泣きわめいていたし、今でも顔を背ける位である。また病院によってはエタノール以外の消毒薬を用いられる事すらある)、外科手術の模様が映し出されるとたとえテレビの画面でも視線を逸らす程である。しかも要領が悪くて単位が取れればそれでOKてな感じの割切り方ができなかったりもした(これは今もだが)。そんな私が、どだい医学生なんて務まる訳がなかったのである。
なのに現役で某国立大学の医学部にパスしてしまったものだからさあ大変。2年生の専門に入った頃には親に「辞めたい」と泣き付いたが真に受けて貰えず、しかも転学・転科という選択の余地も全くなかった事に絶望したため(この頃から多分うつ状態にはなっていたかと思われる)、それからはこっそり家庭教師のバイトをしつつゲームと同人活動とに耽溺する日々を送ることになった次第である。もっとも、この時の経験が再受験で入学したICU(国際基督教大学)での卒論執筆に活かされることになろうとは、当時は露ほども思わなかったのだが。
この挫折と失敗とが、再受験時にICUという大学を私に選ばせたのは言うまでもない。当時は6学科から成っていたICUでは、条件次第で転科が可能であり、また最終的に私が選択することとなった学科間専攻に至っては何故学科間専攻をするのかといった理由書と履修計画書とを提出してその動機が学科間専攻をするという事に合致してさえいればほぼ無条件で可能であった←つまり学科間専攻をするのに成績という条件は全くの無関係であった、という事。もっとも今では2年終了時に専攻を選択して、場合によってはダブルメジャー(私の時代で言うところの学科間専攻)という事も可能であるらしいが。

閑話休題。医学生としては駄目駄目であった私は、当然の如くあちこちに迷惑を掛けまくっていた。特に解剖学の教授お二方には、それはもう散々ご迷惑をお掛けしたものだ。先述した通り要領が悪く、組織片のスケッチにも異様に時間が掛かってしまったり(早い人ならPM6時くらいには釈放されるところを、PM10時過ぎまで掛かった…なんて事はザラ)、御遺体の解剖実習では実際にメスを持ってこれは何といった類のことは他の同級生に任せっきりにしていたり、等々。医学部の中で私がほぼ唯一興味を持って取り組めた公衆衛生学にしても、当時は教授が退官直後でいらっしゃらなかったので、助教授だった先生にお世話になることとなったのだが。
ともあれ、医学部の学生生活は私にとって灰色のものであった。友人達と過ごした時間は楽しかったが、キャンパスライフはお世辞にも充実したものだとは言えなかった。多分目は半分死んでいたかと思われる。

その私が中退後およそ15年の歳月が経過した際に、何とはなしに医学部キャンパスへと足を運んだのだが、その時偶然にも再会した某教授にかなり驚かれた事を今でも私は覚えている。私はICUでの諸々が基準となっているので、ICUに入学してからこちら教授のオフィスを訪問することに抵抗がなくなっているのだ。